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2019年3月29日 有山 茂会員

「東大寺二月堂修二会について」

私の卓話は、過去5回奈良の歴史、奈良の世界遺産など奈良についてお話してきました、今回は、東大寺修二会についてお話しいたします。
関西では、奈良のお水取りが終われば春が来ると言われています。この東大寺 奈良時代に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺で、奈良の大仏として知られる廬舎那仏を本尊として開山は良弁であります。その東大寺大仏殿の東方の坂道を上り詰めた位置に十一面観音を本尊とする仏堂、二月堂があります、すぐ南には三月堂の通称で知られる法華堂また東大寺西には四月堂もありこれらの堂が所在する区画を上院と称し大佛開眼以前から存在した東大寺の前身院があった場所であります。東大寺は平重衡の兵火にて焼失。二月堂は類焼をまぬがれていますが、修二会の最中に失火にて焼失しましたが現存する二月堂は2年後に徳川家綱の援助で再建されました。二月堂は傾斜地に前半部分がせり出すように建てられていて床下に組んだ柱で建物を支える懸け作りで建てられています。この様な懸け造りで建てられている建物は清水寺や長谷寺などの観音を本尊とする寺の本堂に作られるそうです。二月堂の本尊は大小2体あり、いずれも十一面観音で1体は内陣中央に安置され大観音もう1体は厨子に納められており、通常は大観音の手前に安置されるもので小観音と称されています。大観音も小観音とも絶対の秘仏で、修二会の法要を務める練行衆さえもその姿を見ることは許されないのだそうです。その修二会の本行が毎年3月1日から15日に二月堂で行われます。お水取りは、この修二会の途中で行われる行事で、若狭井という井戸から観音様にお供えする香水をくみ上げる儀式です。修二会の正式名称は十一面悔過といい十一面観音菩薩を指し悔過は罪や過失を懺悔することです。修二会とは 私達が常日頃犯している様々な過ちを、二月堂本尊の十一面観音菩薩の前で懺悔する行法です。修二会の由来は東大寺の良弁の弟子 実忠和尚が笠置で修業中に龍の穴を見つけ龍穴に入り進んでいくといつの間にか兜率天(将来仏となるべき菩薩の居場所)の内院にいることに気づきます。内院には四十九院の摩尼宝殿があり、それらを順に巡礼したところ、最後に常念観音院にたどり着きました。そこで目にしたのが天上界に住む諸天衆が十一面観音悔過の修行に励んでいる場所です。実忠和尚はその修行に感動を受けこの修行を人間界に伝えたいと一人の菩薩様にお願いします。菩薩様の返事は、「兜率天の1日は人間界の400年に相当すること。複雑で難しい修行であること。行道は1日に1000回も繰り返さなくてはならない。生身の観音様を本尊としなくてはいけない。などから人間には無理でしょう」とお断りの言葉でした。それでも実忠和尚はあきらめることは出来ず勤行の作法は調子を早め、1000回の行道は走って数を満たしましょう。誠意を尽くして来院を願えば生身の観音菩薩とて現れてくださるでしょう、と伝えて兜率天を後にしました。その後、実忠和尚は、摂津の国 難波津に行き補陀洛山(観世音が住む山)に向かって香花を供えると閼伽の器(水を供える器)を海に放ちました。この閼伽の器がはるか南を目指していき、また帰ってきますようにそう心を込めて生身の観音様の来臨を願い日夜ひたすら祈願を続けたのです。すると生身の十一面観音様が補陀洛山から閼伽の器に乗ってお越しになりました。祈願を始めてからちょうど100日目のことです。実忠和尚はその観音様を東大寺 羂索院(今の二月堂)に安置し奉りました。その翌年である753年2月実忠和尚は生身の観音様の御前において二十七夜六時(2週間)の行法を修めました。お水取りの始まりとなったお話、実忠和尚は二週間の行法の間に、全国13,700以上の神々の名前を書きだし神明帳を作り、そしてその神明帳を行法中に読み上げ神々の来臨を願ったのです。すると、すべての神々が遠近に関わらずお越しになり、この行を助け守護することを約束してくださいましたが、若狭の国の遠敷明神だけは1日経っても2日経ってもいらっしゃいませんでした。今日こそはと日々待ち焦がれていると、修二会も終わりに差し掛かったころやっとお越しになりました。遅れた理由は、なんと魚釣りに興じていて時を逃していたそうです。遠敷明神は遅れたお詫びとして道場のほとりに仏様にお供えする香水を奉ることにしようと、実忠和尚に伝えると、お堂の外に出て石段を下りて行きました。そして石段を下りた所に横たわっている大きな岩の前に座ると呪文を唱えました。すると岩が二つに割れ、白と黒の二羽の鵜が飛び立ったと思いきやそのあとから清らかな水がこんこんと湧き出てきました。実忠和尚はその水を汲み上げると十一面観音様の御前に捧げました。これがお水取りの始まりです、水が湧き出た岩は周りを石で囲み閼伽井(供養のために供える水)としました。若狭の国の遠敷明神が出してくれた井戸ということで若井の井戸と名付けたそうです。現在閼伽井屋という建物の中にあり一般公開はされておりません。お水取りの行事においても閼伽井屋の中に入ることが出来るのは限られた人だけとなっています。お水取りの行事は、毎年2月の初めに国家の平安、有縁の人々の幸福などを祈願する仏会、修二会と称して奈良・京都・三重(伊勢)などで行われていましたが中世に至って廃絶し今はわずかに東大寺二月堂、薬師寺、新薬師寺などで行われているにすぎないです。修二会では1日に日中・日没・初夜・半夜・後夜・晨朝の六つの時に分けてそれぞれ悔過作法が勤められます。お水取りの行事は、12日目の深夜に後夜の悔過作法を中断して咒師(神仏に祈る人)と5人の平衆(世話役)と共にお堂の外に出ると松明を持つ咒師童子を先頭に汲み上げた香水を入れる閼伽桶を担ぐ庄駆士を交えて列をなし篝火が焚かれ雅楽の鳴り響く中をしずしずと石段を降りて閼伽井屋へ向かい香水を汲み二月堂へ運んでいきます。この行為を三度繰り返し香水を内陣に納めるとお水取りの行事は終わりとなります。お松明は本来行を始めるために練行衆(修二会を行う11人の僧侶)の道明かりとして焚かれるもので一人の童子(練行衆を補佐する人)が松明をかざし入堂されるものです。12日は、籠松明で長さ8m重さ70㎏の大きな松明を使われ、この火の粉を浴びると健康・幸せになると言われています。良弁杉にまつわる話、昔滋賀県の志賀とゆうところにある夫婦がいました。子供に恵まれず、ある日、観音様にお願いしたところ男の子を授かりました。ある日の事、畑で仕事中に、静かに鷲が下りてきて、赤子をワシつかみにして遠くに飛んで行ってしまったのです。鷲は奈良に飛んできて、今の二月堂の下の杉の枝に引っ掛けて食べようとしたその時、赤子の胸のあたりから後光がさし、鷲の目がくらみ、鷲は食べることが出来ず、諦めて飛んでいきました。その下を義淵というお坊さんが通りかかり、枝に引っかかって泣いている赤子を助けると、懐に一寸八分の金の観音様のお守りが入れてありました。義淵はこの赤子の名前を良弁と名付け育てました。良弁は後に立派なお坊さんになり東大寺の建立に力を尽くしました。

# by osakajotorc | 2019-04-11 12:17 | 卓話