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2023年5月19日 卓話担当:家原 泰雄

「落語家になったイキサツ」
卓 話 者:落語家 桂 雪鹿様


みなさんこんにちは。私は落語家の桂雪鹿と申します。本日は私が落語家になったイキサツについてお話させていただきます。私は大阪の南端、阪南市の箱の浦という町で生まれました。地元の住宅広告には「シーサイドタウン箱の浦」海のそばの町だけにかっこいい表記。そして隣に「第二の芦屋」これは言い過ぎかと思いますが。本名が剛(つよし)といいます。俳優の加藤剛さんからとった字だそうですが「ごうは風の音みたいでダメだ」という父親の反対があり、読み方を変えることになりました。たけし…たかし…と色んな読みができる字だけに悩んだそうです。そこで父親がよしゆき、母親がよしえ。「よし」が二つ。twoのよしで、つよし。嘘のようなほんまの話。この時から落語家になることは決まっていたのかもしれません。
落語との出会いは小学生時代。母親が家で流していた桂米朝師匠の落語を聴いたのがきっかけ。落語を演じることはないものの、将来の夢は「落語のできるプロ野球選手」
中学生では野球部に入りました。1回目の練習で動きに全然ついていけず、プロ野球選手の夢はあきらめました。落語は相変わらず好きで、落語の本を読み、頭の中で再生して楽しんでいました。授業中には、携帯電話のマナーモードのモノマネをしては先生から注意をされていました。「すみません!私がモノマネでやってました!目の前でやるので聞いてください」先生の目の前でやりますと「…早よ携帯出さんかい!」それでも気づかないほど、このモノマネは信頼と実績を誇っているわけです。この頃の私の夢は「環境問題にまつわる仕事」
高校でも野球部に入りました。かなり下手くそでした。なぜなら、ボールが来たら目をつむってしまうからです。そんな私は、応援歌の替え歌を作ったりしてスタンドやベンチから盛り上げる役に徹していました。
そしてお笑いブーム到来とともに漫才にはまり、友達とコンビを組んで大会にも出場。地方優勝!調子に乗ってその時の夢は「漫才師」すぐにでも吉本の養成所に行きたいと言いましたが、親の意見もあり大学へ進学。
高三の春。100円ショップで買ったモーツァルトのCDを勉強中にたまたま聴いたのがきっかけで、ヴァイオリンをしたいという気持ちが湧いてきました。しかしヴァイオリンというのは高価だし、大人になってから始めるものではないと断念し、近所の楽器屋へギターを買いに行くことにしました。予算3万円の私にはどれも手が届きません。母親にもう少し無理を言ってお金を催促しに帰ろうか思った時、こんな文字が目に飛び込んできました。「ヴァイオリン初心者セット2万9800円」そんなことでヴァイオリンを買ったはいいものの、音符も読めない私には手も足も出ず、大学生になるまで放置していました。
大学生になると、ヴァイオリンを教えてもらうためオーケストラ部に入りました。しかし野球部上がりの私は、文化部の雰囲気にあまり馴染めませんでした。「もう辞めようかな」そんなことを思う日が続きました。一回生の冬合宿、転機が訪れました。お楽しみ会にヴァイオリン漫談で出場したのです。内容は、一発ギャグやモノマネをしてはブリッジに爽健美茶の曲を弾くというもの。なんと拍手喝采。その日から、嘘のように団員たちと仲良くなったのです。やはり私のアイデンティティは笑いだと感じました。
一方で漫才の活動も続けており、将来の夢は漫才師というのは変わりませんでした。教育学部ということで教育実習には行きました。「これも経験、話の種」ぐらいの気持ちで行ったのですが、子どもたちの素直さとやりがいに心を打たれ、実習最終日には「頑張って立派な先生になるね!」と子どもたちの前で号泣しながら誓いも立てました。そして念願かなって、小学校の先生になりました。2年生の担任を任され、張り切っていました。体育の授業で準備体操中、私のパンツがチラッと見えたことを子どもたちがからかいます。「余計なこと言いません。授業中ですよ。」と言えば良かったのですが、私はそう言いませんでした。なぜなら、パンツにこだわりを持っていたからです。その時履いていたのが浮世絵柄のパンツ。これを見せたら子どもたち、さぞ喜ぶだろう…。大学生気分抜けきらない社会人1年目の私はズボンをおろし、子どもたちにパンツを披露しました。「うわぁー!先生がパンツ見せた!やっばぁ〜」子どもたちの騒ぐ姿を見て「よしよし、ウケたな」と当時の私は喜んでいました。職員室に戻ると主任の先生が手招きをしています。「まさかと思うけど、あなた、子どもにパンツ見せたの?」「そうなんです!子どもたち喜んでましたよ!先生も見ます?」「見ません。あなた分かってる?子どもが家に帰って、男の先生にパンツ見せられたってゆうたら、お家の人どう思う?」言葉を失いました。この時初めて、自分が良くないことをしたということに気づいたのです。ニュースで見る先生の不祥事、児童への猥褻な行為。まさか自分の軽はずみな行動がこんなことになるなんて。短い教師人生だったなと、給食の牛乳も喉を通らんという状況でした。放課後、校長先生教頭先生ともに、お怒りの電話があった場合に備えて一緒に職員室に残ってくださいました。しかしその日、保護者からの連絡はありませんでした。それから1週間が経ち2週間が経ち、保護者からの連絡はなく、ホッと胸を撫で下ろしていました。1ヶ月後、授業参観がありました。なんとか授業を終えてホッとしていると、数名の保護者が私の方を見てはニヤニヤしてコソコソ話をしています。何か用かな?と、こちらも見返していると一人のお母さんがツカツカツカっとこちらへ歩いてきて「古谷先生、今日はどんなパンツ履いてるんです?」本当に寛大な保護者の方々に見守られながら教師生活を送っていました。そして相変わらず、忘年会でモノマネをしたり先生仲間と組んで漫才をしたりする日々。「教室より輝いてるで」と言われる始末。そんな私の姿を見て、アマチュア落語家の先生から「落語、してみぃひん?」と声をかけられたのがターニングポイントとなります。元々落語は好きだったし、人前でしゃべるのも好きだし、これは面白そうだと思い首肯しました。自分で落語をするようになると、プロの落語会にも頻繁に足を運ぶようになり、そこである日運命の出会いをします。
桂文鹿と名乗る噺家は、原価率をテーマにした新作落語「さわやか回転寿司」を語り、その日一番の大爆笑高座でした。「落語って、こんなにも自由に色んなことを表現できる芸能なんだ!」漫才もヴァイオリンも落語もあれもこれもやりたいという私にとって、最適解を見出した気がしました。「弟子入りしたいな」こんなことを考えるようになっていました。
それから約一年後、小学校の先生仲間で呑んでいた時のことです。私は落語家になりたいという思いを、先生仲間にぶつけました。すると「マジで?やめときや。今みたいに趣味としてやっててもええんちゃうん?」みんな揃って反対され、話を聞いていると「確かに今の生活も悪くないしな」と一気に決意が揺らぎ始めていました。そして話題は土日の過ごし方。「体育研修行きました!」「算数の勉強会行きました!」休日返上で教師としての研鑽を積む仲間たち。私はというと「アマチュア落語の会」「寄席通い」「結婚式の余興」こんなことに明け暮れているばかり。同じ先生仲間が研鑽している中で、自分はこんなことで良いのか。しかし一方で、こんな思いがこみ上がってきました。「こいつらより、俺の方がおもろいのに」この時気づいたんです。自分の価値観が他の先生と違うことに。「そうだ、私が人生をかけて取り組むべき仕事は落語家だ!」その翌日、私は桂文鹿の落語会へ入門志願のため向かっていました。ここから2年間の壮絶な修行生活が始まるわけですが・・・この続きは、またどこかの高座で。本日はどうもありがとうございました!






# by osakajotorc | 2023-06-08 14:17 | 卓話