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2017年6月9日 担当:杉野 政史 会員

「今、戦中・戦後の事を思う」
大阪大学名誉教授 畑田 耕一 様 (豊中RC)

国民学校入学
昭和16年(1941)4月、筆者は大阪府南河内郡丹比村の丹比国民学校に入学した。その年の12月8日、日本は、真珠湾攻撃に始まる大東亜戦争に突入した。開戦当初は、ラヂオや新聞は日本の南方戦線における赫々たる戦果を伝え、それによって得られた天然ゴムで作った軟式テニスのボールが生徒に配られ、また、当時は貴重品であったゴム底の運動靴の特別配給があった。
戦中・戦後の窮乏生活と生活の工夫
そんな時期は長くは続かず、昭和18年5月には米軍がアッツ島に上陸して日本軍は全滅した。それでも、日本軍の最高統帥機関である大本営は、多くの戦場での日本軍の赫々たる戦果を発表し続けたが、それとは裏腹に、日々の生活は少しずつ、窮乏していった。大部分の住民が農業を営んでいた筆者の村では、食べ物に困ることは無かったが、都会では、白いご飯が麦飯、お粥、雑炊と変化し、最後には、米粒の殆ど入っていない水のような雑炊となって行った。戦争に必要な食料の供給は、通常の田畑だけでは間に合わなくなり、荒地を開墾してサツマイモを植えるようなことも、銃後の国民の重要な仕事となり、われわれ「少国民」も授業を止めて開墾に行く日が多くなった。作ったサツマイモは、蔓の部分まで「お浸し」にして食べた。溜池のフナや鯉、家で飼っている鶏とその卵は貴重な蛋白源であったが、戦争末期には田圃で取れるイナゴも食べた。夜の停電はしょっちゅうで乾電池のようなものは、なかったので、灯かりはローソクに頼るしかなく、昔から家にあった龕灯(がんどう)が随分役に立った。
物の無い時代もまた幸せ
当時の真空管式ラヂオを、停電時に電気無しで働かせることは勿論不可能であったが、真空管式のラヂオの前に使っていた、電気の要らない鉱石ラヂオがあったので、ニュースなどは聞くことが出来た。アメリカのVOA放送は、日本の大本営発表とは異なり、戦況の真実を伝えていた。それで、VOAが聴取できる夜になると、妨害伝波が出されるようになった。可変コンデンサーとスパイダーコイルを組み合わせた高周波同調回路をつけると、妨害電波の影響を避けて必要な放送を聴くことができた。いわゆる機械ものに関する仕事は、父が出征中で、母と子だけの我が家では小学生の筆者の仕事であった。この頃の経験が、筆者を自然科学の道に進ませる切っ掛けになったと、今思っている。完成品をただ使うのではなく、自分で作って使う、それもキットを買ってきて組み立てるというような作り方ではなく、自分で何をどのように作るかを決めて、材料を集めて作って使うと、そのものの作動原理が良く理解できる。物の無い時代の子供は幸せだったなと、今にして思う。
戦争一色の生活の中で
戦況は上に述べたアッツ島玉砕の頃から次第に怪しくなってきた。それにともなって、学校の授業も次第に様変わりし、体操の時間には海軍の兵隊の体操を子供向けに作り変えた海軍体操なるものをやることになった。物資の窮乏は極限に近く、「屁もまた燃えるものなれば、これを使わざるべからず」と言った陸軍の偉い人がいて、兵隊にサツマイモを食べさせて風呂に入れ、屁を水上置換で集め、燃焼実験をしたという話を、戦後に何かの本で読んだ記憶がある。戦争中の過酷な生活の中の、ユーモラスなひとこまではある。当時の兵器の一つに風船爆弾というのがあった。気球に爆弾をぶら下げて上空に上げ、アメリカの上に来たときに気球がしぼんで、落下するという仕掛けである。この爆弾は、屁を燃料にする実験よりは効果があって、アメリカ人を驚かせたということである。夜、大阪市が爆撃されるさまを遠望することが時々あった。焼夷弾が雨あられと降るさまは、さながら、花火大会のようであった。時たま、日本の高射砲の玉が打ち上げられるが、爆撃機の遥か下で破裂して全く効果が無い。高射砲の砲弾は、飛行機に当たらずにそのまま下に落ちてきたら、味方に爆弾を落としたのと同じになるので、敵機の近くまで上がったときに炸裂するように仕組まれている。この頃は、そのような砲弾を作るのに充分な金属材料が既に無く、上空を飛ぶ爆撃機に当たらないことは承知のうえで打ち上げていたのだとは、日中戦争で高射砲隊の隊員をつとめた父の話である。
世界の平和のために勉強せよ
この様な状況のもとで、日本が戦争に勝つとは、考えにくかった。それを口にするものはほんの少数であったが、筆者のまわりには居た。当時、大阪大学工学部の教授であった伯父は墜落したアメリカの飛行機の調査の結果から、これだけの技術を持つ国に日本が勝つことは不可能と断じていた。私立中学の先生をしていた祖父の弟は、新聞社のニューヨーク特派員をしていた頃の体験から、この戦争に勝つことの困難さを教壇から生徒に話し、周りの人たちをはらはらさせていた。そんな折、終戦の約2ヶ月前の梅雨の日、周辺の学校の先生方を招いて、われわれ丹比国民学校の全校生徒による海軍体操の参観授業が行なわれた。雨の中でずぶ濡れになりながらの体操であった。全てが終わったあと、検閲に来ていた陸軍中尉が壇に上がり、「君達は非常に上手な体操を見せてくれた。私は大変心強く思った。しかし、体操も大事だが、勉強も一所懸命にやってくれ。戦争が終わった後の世界の平和のために」と言われた。先生方には思いもよらない一言であったが、体操が好きでなかった筆者は、兵隊さんがもっと体操をやれと言うのかと思っていたら、勉強しろと言われたので、大変嬉しかった。「平和のために勉強せよ」という言葉の意味は、正直なところよく分らなかったが、言葉そのものは、しっかりと覚えておいた。そして、後年、これがおそらくは日本が間もなく歩むはずの道をすでに見通していたこの中尉さんの、われわれ子供への必死の一言であったのだと思うようになった。戦争中に、戦後の日本の進むべき道を、子供たちに明確に示してくれたこの兵隊さんの言葉は今も忘れない。
今、日本人が考えねばならないこと
昭和20年8月6日広島に、9日長崎に原爆が投下され大きな被害が出た。そして、8月15日の正午、昭和天皇による終戦の詔勅の録音が放送された。戦争に負けたという無念さはあまり無く、やっと終わったという安堵感の方が大きかった。以上のようなことを、最近、小学校の出前授業で話すようになった。戦争を体験した先生が殆どおられなくなった今、このような話を子供達に伝えるのが自分達の使命と考えてのことである。子供たちは、これまで全く知らなかった世界の話を、皆一様に驚きながら聞いてくれる。「戦争はもっと大きな国が始めたものと思っていたら、日本が始めたと聞いてびっくりした」という意見も多いが、それよりも、殆どの子供が言うのは「何故、日本の国民は戦争をしてはいけないということを言えなかったのだろう」という疑問である。当時の日本の情勢を知らない子供たちにとっては、当然の意見ともいえるが、筆者は、それよりも、今の小学生は民主主義の根本が分っているのだと理解したい。その「民主主義の根本を大事に思う心」を何時までも持ち続けて、必要なときにはいつでも実践に移せる人間に育って欲しいと願っている。

本稿の詳細は、畑田家住宅活用保存会ホームページ掲載の論文、畑田耕一「今、戦中・戦後のことを思う-2」を、参照いただきたい。(http://culture-h.jp/hatadake-katsuyo/senchu-sengo2.pdf)

by osakajotorc | 2017-09-22 16:20 | 卓話

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