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2017年2月17日 卓話:薦田 光会員

「私の職業四方山話」

去る2月3日の卓話が、国際奉仕委員長柳瀨会員の「国際奉仕よもやま話」でしたので、よもやま話第2弾となります。因に私の現在の職業(旅行業)も第2弾です。“旅行業とは?”旅行業は日本基準産業分類の中で大分類 N, 中分類79生活関連サービス業に分類されています。旅行をなりわいとしている旅行会社とは、交通・宿泊・その他の旅行商品を仲介あるいは自社で企画・催行して旅行者に販売する会社のことを言います。中でも目玉商品は観光を目的とした団体旅行です。では観光とは?配布資料をご覧ください。旅から不安・危険を取り去って余暇の時間に非日常的空間で様々な光に触れ、学び、遊ぶと言った楽しみを求めてゆく旅を観光といいます。光とは富士山やナイアガラ瀑布に代表される様な自然の光、文化遺産・国宝に代表される文化の光、又、妻籠・馬籠・古都京都や奈良の様に両方の光が併存する複合型の光を指します。因みに“観光”の語源を辿れば中国の古典“易経”の中にあります。“観国之光利用賓于王=国ノ光ヲ観ルハ、用ッテ王ニ賓タルニ利シ。”「観」は見ること見せることの二つの意味を持っています。では何故私が今の職業になったかについて私の生い立ちから少し説明致します。私は、男尊女卑の風潮の残る愛媛県の片田舎に9人(女・女・男・女・女・男・男・男・『女』)中9番目の末っ子に生れました。上3人続きの男の下ですので、戦争中でもあり、従軍看護婦の役柄で赤十字の薬箱を持って兄達の戦争ごっこに参加したり、泥鰌掬い・竹馬・独楽まわし・ペッタンコ・凧揚げ、終にお人形遊びには縁がありませんでした。中学3年3学期に兵庫県宝塚の中学校に転校しました。クラスの決りや英語力の差が酷くて泣かされましたが、先生の温かい励ましの言葉で頑張って高校へ。でも残念乍ら父の病気もあって再び郷里田舎の高校2年に転校しました。兄達は当然の様に大学進学、女の子は高校卒で終るか、文化服装学院とかへ行くと言った風潮がありました。私の母は割合にリベラルで“一人で行く覚悟があれば行きたければ行けばいい”との事だったので、大変有難く嬉しく思いました。高校不勉強の私は1年浪人の憂き目を見ましたが、母は黙って見てくれていました。そして大学へ。(大阪府立大阪女子大学社会福祉科・現大阪府立大と合併)“ただただ広い世界へ自由に伸び伸びと”、でも女性が自由に生きると言う事は一生一人で終わるかも知れない。そしたら終の棲家はどうするか?快適な老人ホームを作ればいいのでは?といった思いが大学の社会福祉学科を選ぶ事に繋がったかなと思います。大学のゼミで弘済院という(今はありません)養老院を見学した時、6畳位の和室に4人の老人達が夫々に虚ろな目をして、四隅に向かって座っているのを見て、終の棲家にするにはあまりに哀しくて侘しいではないかと痛感しました。しかし、老人ホーム建設には莫大な資金が必要です。当時の大卒公務員の初任給は1万円前後、これでは資金は覚つかない。丁度卒業の年、大阪で印刷文化典というイベントが開催され、そこの事務局に推薦され、1000万(今の1億5000万くらい)の運営資金を任されたのです。多彩な人材、立派な会社経営者の方々との出合いがあって、単細胞の私はよっしゃ起業して社長になって儲けて・・・と考え会社設立を思い立ったのです。最初の会社は参画したけれど資本参加してない名前だけの重役(サラリーマン重役)で社長になれない。しかしこれも勉強と思い直して3年間コツコツ貯金をして、ともかくも昭和38年(1963年)4月17日、以前から旅行斡旋業は信用と机と電話があれば資本金が少なくて出来る仕事と聞いていたので、現在の旅行会社を設立し念願の社長に就任しました。従って好きで始めた仕事ではありませんが、老人ホーム建設資金作りにはこうするしか術はないと思ったのです。最初は日本の高度成長期にあって、3年で借金返上黒字計上しました。順風満帆に思えた景況は昭和49年(1974年)の第1次オイルショックで、お得意様の中小企業が沢山廃業とか倒産をしました。その様な状況下、我業界では、大手旅行会社に対抗するために、そして大手と同じサービスの提供が出来る様にと協同組合大阪府旅行業協会を昭和51年(1976年)2月13日に信用と補償を旗印に、私も創立メンバー15名の一員として参画、入会組合員は280余社でした。やれやれ一安心と思ったのも束の間、昭和54年(1979年)第2次オイルショックで日本が財政拡張計画を採用し、やがてバブル時代へと突入。宮澤内閣の時代にバブルの崩壊その後の日米貿易摩擦、昭和60年(1985年)のプラザ合意は日本経済の停滞を招きました。ただその間、海外旅行は盛んになって、日本人のブランド爆買いは世界の顰蹙を買いました。昭和61年(1987年)頃まで続いた不動産バブル、そして愈々昭和62年(1987年)10月19日(月)のブラックマンデーで世界中で株価の暴落、この頃の経済用語として記憶に残る言葉…金融緩和・特金・財テク・ワラント債・エンドレスループ・マネーゲーム・地上げ屋・絵画ブーム・ゴルフ会員権・それでもブラックマンデー時、NTT株上場は2日で25%値上がりした様に、この頃まではまだ不況感はなかった様に思います。平成5年(1993年)皇太子殿下御成婚、雅子妃おしるしの“はまなすの花”に因んで「旅行業女性オーナーの会」通称「はまなす会」を近畿2府4県の女性旅行業者38名で創立しました。目的は全国の有名旅館の女将と交流して個人的な信頼関係を築き(今の安倍首相みたいですね)送客に務め、大手旅行会社並のサービスの提供を受ける事でした。7年位は大変順調でした。ただ平成7年(1995年)阪神淡路大震災で関西の中小旅行業者は大打撃を受け、更に打ち続く大震災(新潟中越・東日本・熊本・鳥取県中部)、世界的不況(平成20年リーマンショック)、旅行業界の構造の変化等で、メンバーも次々と廃業、倒産で、はまなす会も一応解散式をして、只今は奈良県に1社と当社の2社だけで残務を引き受けています。この会はとても良い会でした。私は今でも良質な旅館やホテルは、そこの女将さんや従業員の主だった人と特別な信頼関係を築く努力をしています。5月に予定している我クラブのサミット旅行で宿泊する志摩観光ホテルの樋口宏江総料理長も私と仲良しです。大手旅行会社はここ数年の中国、東南アジアなど海外の観光客の急激な増加で爆買いブームがあったり、日本の良さを求めての観光客(外客)の増加などでかなり収益増の感がありますが、反して中小零細旅行業者はその恩恵にあやかれず苦戦の連続です。又、お客様がインターネットを使って旅行商品を直接購入されるのも、それだけ旅行会社のシェアを狭くしています。酷い環境の中で、どうすれば生き残れるのか、我社の“売り”は何なのか、魅力的な旅行商品とは…等々考えを廻しますが、“言うは易く、行うは難し”で苦労しています。お客様は限られた人生という時間と、命を削って貯めたお金を使って下さるのですから、その旅行商品は楽しいものでなくてはならない。これって大阪城東ロータリークラブの生き残り作戦と似ていませんか?我クラブも地区の要請で戦略計画委員会を立ち上げ、クラブの活性化とサポートを掲げております。換言すれば会員増強と会員の退会防止と言う事でしょうか。人が貴重な時間とお金を使いに集まって来るのは、そこが魅力ある楽しい場所だから。例えば、
①例会に行くのが楽しい ・・・ お互い触れ合い親睦を深め仲良しになる
②楽しいイベントの開催 ・・・ 学ぶ愉しみ、遊ぶ楽しみ
③ロータリークラブへ来ればそこはちょっとレベルアップされた非日常空間(音楽をたのしみ乍らの昼食など)
これ等のことは前述の“観光”の定義と似ていませんか。ロータリーも限られた人生の時間と少し又は沢山ゆとりのあるお金を奉仕して人の幸せづくりに貢献し、それが又自分の幸せ、生きる喜びとなるところ。さて、“老人ホーム建設”と言う私の夢はバブル崩壊と共に消え去りました。旅行業を、不況の大波に何度も晒され乍ら54年も続けておりますと残念乍らミイラ取りがミイラになってしまった感があります。しかし御縁があってロータリーに入会させて頂き、奉仕の真似事が出来るのも夢の叶わなかった私の人生に、大阪城東ロータリークラブがほっと安らぎを与えて下さっています。私の観光と言う仕事は人様に楽しみを売って、人様に生きる喜びを感じて頂くこと。ロータリーは私が奉仕する事によって私が生きる喜びを感じるところ。皆様、みんなの手で我クラブを魅力溢れるクラブに、そしてうんとロータリーを楽しみましょう! 
“楽しいは幸せ、幸せは生きる喜び”御清聴誠に有難う御座居ました。

by osakajotorc | 2017-09-22 15:32 | 卓話

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