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2016年9月9日 有山 茂 会員

「飛鳥王朝の時代」

本日は、飛鳥時代の人物、とくに聖徳太子を中心にお話しいたしたいと思います。
奈良盆地の南東部に飛鳥といわれるところがあります。この地で身分のある人が、古墳に葬られ古墳時代から中国にならって法律をもとにして国を治める律令制国家への脱皮はこの飛鳥地方を舞台として始まったといわれています。欽明13年、552年、百済の王が天皇に正式に仏教の信仰を進めてきたとき、仏教を受けいれようとする蘇我氏と、それに反対する物部氏は激しく争い、戦にまで発展しました。蘇我稲目は仏教を取り入れることで、大陸の進んだ文化や制度を取り入れようとしたのでしょう。物部尾輿は倭国は古く八百万の神々がまします国。異国の神を拝むなど、とんでもないと。蘇我稲目と物部尾輿の対立は、それぞれの息子である蘇我馬子、物部守屋まで引き継がれます。熱心に仏教を取り入れようとした蘇我氏の由来はよくわかってはおりませんが、渡来人と交流があったと思われます、なぜなら先祖には韓子や高麗の名前が見られます。人名に「子」がつきはじめたのは、中国の春秋時代からです、この時代に孟子、孔子など優れた思想家が多くあらわれ。「子」は先生という意味の尊称で当初は男性の名前でした。先ほどの韓子や曽我馬子、小野妹子などが例です。「子」が女性の名前に使われるようになったのは平安時代中期ごろで、上流階級にかぎられていました、それが明治時代後期に入ると、一般庶民の間で爆発的に流行しました。蘇我馬子は父、稲目の志を継ぎ、仏教を中心にすえる「崇仏派」の立場から政治をおしすすめます。一方、物部守屋は仏教を礼拝すれば国神の怒りをまねくと日本古来の神道をかかげ仏教廃絶を解く「廃仏派」でした。しかしこれは単なる宗教戦争ではなく、朝廷の指導権を蘇我、物部どちらが握るかという勢力争いでした。戦いは、587年用明天皇が崩御すると、物部守屋は穴穂部皇子を次の天皇として掲げます。蘇我馬子はいち早くこれを察知。馬子は穴穂部皇子の弟、泊瀬部皇子を次の天皇として掲げます。こうして物部守屋と蘇我馬子の対立は一気に高まります。ついに蘇我馬子は物部守屋の擁立する穴穂部皇子の宮に軍勢を差し向け取り囲み穴穂部皇子を殺害します。翌月、蘇我馬子は、泊瀬部皇子、厩戸皇子(聖徳太子)らとともに河内衣摺の物部守屋の舘に押し寄せますが、蘇我の軍勢は苦戦を強いられます。その中に、13歳で軍勢に参加していた厩戸皇子は戦況の不利を心配して小刀で四天王像の仏像を彫り、髪をたぐりあげ、誓いをたてます。皇子は「この戦、必ず勝てるようにと。もし勝たせて下さるなら、この地に立派なお寺を建てます。すると、馬子も、私もお寺を建てます」と言って、厩戸皇子と蘇我馬子は小さな木彫りの四天王像を前に手をあわせました。勝利の後、厩戸皇子は誓い通り河内の地に四天王寺を建立、また蘇我馬子は飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺)を建てました。587年、物部守屋を滅ぼした蘇我馬子は、泊瀬部皇子を大王として即位させます。崇峻天皇です。こうして蘇我馬子の後ろ盾で大王になりましたが、政治の実権は馬子が握っており崇峻天皇は不満が高ぶり反発すると、蘇我馬子は東漢駒を刺客に送り切り殺します。崇峻天皇を殺害した蘇我馬子は、593年、額田部皇女を即位させます。日本初の女帝・推古天皇で、厩戸皇子と蘇我馬子との三者体制の時代が始まります。聖徳太子は、蘇我系天皇の用明天皇と、蘇我系の穴穂部間人皇女の間に生まれた第一子の子で、名前は日本書紀の中でいろいろの名前が書かれています。厩戸皇子、東宮聖徳、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、上宮厩戸豊聡耳太子 上宮太子、上宮王。太子が厩戸王と呼ばれたその名の由来は、用明天皇の皇后穴穂部間人皇女が出産の日に、宮中をめぐって、各官司を視察していたところ、馬の司のところで厩の戸に突き当たり、苦しむこともなく突然出産したという。生まれてすぐ、言葉を話し、聖者の知恵を持ち、成人になって、一度に10人の訴えを聞き、誤ることなく、よく理解し、これから起こることを前もって知ることができたという。名前の豊耳聡、豊聡耳は、一度に多くのことを聞き分けることができるという意味である。また、法大王、法主王は、高位の仏教者に与えられる称号に因む名前である。このように時代によって太子は呼ばれる名前が変わっていきます、しかしいずれの文献にも聖徳太子とは書かれていません。最近の教科書も厩戸皇子と書かれるようになりました。太子は、蘇我馬子の娘である刀自古郎女の間に、山背大兄王、財王、日置王、片岡女王この四人が生まれています。そして太子と関わりが深かった膳部加多夫古の娘、菩岐々美郎女との間には、春米女王の他7人がうまれ、この春米女王は、後に異母兄弟である山背大兄王と結婚し、四男二女を生んでいます。太子の家族は、非常に近い近親結婚をしているのです。厩戸皇子が、宮廷のある飛鳥から離れた斑鳩の地に宮をつくって移り住んだのは、推古天皇13年605年のことです。太子が斑鳩に来たのは最愛の妃、膳菩岐岐美郎女の実家があったからでしょう。それに斑鳩は、背後に矢田丘陵の南端がせまり、富雄川が東南を流れ、それが南で奈良盆地の諸河川と合流して大和川となる要害の地で、敵を防ぐのに適したところで交通のかなめにあたっていました。文化国家の建設を願い、海外の進んだ文化を取り入れるのに熱心だった太子に、斑鳩の地はまことにふさわしいところだったのです。太子は高句麗・百済の僧に学び、隋皇帝にも使節を派遣しました。また仏教と儒教(中國の孔子の教え)にもとづいて十七条の憲法をつくり、政治をする貴族の態度を正そうとしました。推古15年607年太子は、仏教経典の講義をした褒美として推古天皇から賜った水田を斑鳩寺に寄付し、亡き父、用明天皇のために銅の薬師如来像を鋳造させ、斑鳩寺の本尊にしました。太子は推古30年622年に49歳で斑鳩の葦垣宮で亡くなりました。このとき諸王・諸臣・および天下の農民たちは、悲漢に暮れ、老人は愛しい子を失ったように酢をなめず、幼いものは悲しむ父母を亡くしたように泣き、その声は巷にあふれた。耕すものは手を休め、稲つく女は杵を止めた。太陽や月は輝きを失い、天と地が崩れたようになってしまった。これから先、だれを頼りにすればよいのだろうと話し合ったという。歴代の天皇でも、ここまで神扱いされた人物は他に例がない。太子が法華経などの経典の解説書を執筆したのも斑鳩でのことだったと考えられます。太子とあい前後して太子の母間人皇后、膳妃も亡くなりました。このとき太子のために、太子の妃と王子たちが、太子と同じ大きさの釈迦像を鋳造。膳氏が斑鳩寺のすぐ北に作った法輪寺に安置しました。また、間人皇后のためには、斑鳩寺の東方に中宮寺が建てられました。こうして、用明天皇のための斑鳩寺と間人皇后の中宮寺は少し離れてならびたち、それぞれ鵤僧寺、鵤尼寺と呼ばれました。推古天皇は、後継者を指名されないまま崩御され、山背大兄王と田村皇子が皇位継承問題で激突しましたが、皇族同氏がいがみ合ったのではなく抗争の相手はそれぞれの皇族を後押しする蘇我氏内部の分裂でした。田村皇子を推す、蘇我蝦夷と入鹿蘇我総本家と、山背大兄王を推す蝦夷の叔父、境部摩理勢の対立です。結局、境部摩理勢側が攻め滅ぼされ田村皇子が即位し、舒明天皇が誕生しました。さらに、舒明天皇が崩御され、舒明天皇の皇后だった宝女が皇位を継承し皇極天皇となる。この時点でも山背大兄王、皇位に執着していたが、蘇我入鹿は、もう一人の蘇我家皇族、古人大兄皇子も擁立を目論み邪魔になった山背大兄王を消し去るべく斑鳩に蘇我氏の兵を差し向け山背大兄御王の一族を襲わせました。山背大兄王は、いったんは難を逃れて生駒山に退いた。そして、「兵をあげ東国に援軍を求めれば、勝機あります」という進言に、王は、「戦いによって多くの死者が出るのはしのびない」と斑鳩に戻り、斑鳩寺の塔に入って、妃や王子たちとともに自殺してはてました。平和のために身を捨てた山背大兄王は、太子に劣らない仏教信者だと言えるでしょう。この事件で斑鳩の宮は焼け落ち、太子一族とともに歴史の舞台から姿を消しました。山背大兄王の母は膳妃ではありませんでしたが、妻が膳妃の長女でしたから膳氏は山背大兄王らのためにも仏像をつくって、法輪寺に安置しました。なお、法輪寺東方の法起寺は、山背大兄王の母蘇我妃の宮跡を寺にしたものとみられます。1年後645年長いこと権力の座にあった蘇我氏が中大兄王子(天智天皇)らに滅ぼされ、ここに日本は、唐の律令政治をとりいれ、新しい時代を迎えるのです(大化の改新)。

by osakajotorc | 2017-09-12 17:07 | 卓話

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