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2015年3月20日 卓話 藤田 幸一会員

「私の仕事(フォトグラファーと写真館)」  藤田 幸一会員

写真館の歴史上の役割は、個人、社会の歴史の表現者であった。
フランス
写真はフランスで1829年ジャック、マンテ、ダゲールが(銀板写真)ダゲレオタイプを発明し1939年フランス化学芸術アカデミーで発表し世界にセンセーションを起こした。フランス政府は特許を買い上げパブリックドメインにした。ダゲレオタイプの嵐が吹き荒れ肖像写真の流行が起こる。当初のダゲレオタイプは複製が出来なかった。写真と絵画は16世紀ごろから密接な関係があり、今でいうピンホールカメラ(オブスクラと呼ばれた)で、黒い暗幕で部屋を作り部屋全体をピンホールカメラにして立体画像を平面画像に映しかえスケッチをした。肖像画は地位の高いお金持ちのものであったが産業革命後大勢の中産階級が誕生し肖像画の需要が起こり、それが肖像写真へとつながっていった。絵としてなかなか認められなかった時の印象派の人たちの集まりを写真館主が援助したこともあった。現在も高級な肖像写真館がパリにあり俳優やエグゼクティブの人達で繁盛している(パリ、アルクールスタジオ)
イギリス
貴族ウイリヤム、ヘンリー、タルボットが1840年にカロタイプ方式を発明、複製が作れる画期的なものであった。1843年写真工房を作り1844年世界最古の写真集(自然の鉛筆)を出版。多数の写真館が誕生した。王室の写真を撮っていた写真館主でフォトグラファーのスノードン卿(結婚後の名称)とエリザベス女王の妹マーガレット王女との結婚は有名である。
アメリカ
ジョージ、イーストマンはタルボット方式を改良しコダックを作りフイルム時代は世界をリードしアメリカ全土に写真館が多数できて大発展した。移民社会の特徴で白人相手の写真館はユダヤ系の方が多かった。貧富の差は大きいが黒人の所得もあがり黒人の経営する写真館と中華系には中国人の写真館、他のアジア系には日本人や韓国系の写真館があった。NYの5番街にも大きな写真館があった。写真は肖像写真以外に細分化され専門化していった。現在写真館はヨーロッパでは衰退していったがアメリカは移民社会のため家族のアイデンティティを重視し居間や職場のデスクに家族の写真を飾る習慣がある。現在大型写真館はなくなったが全国に多数の写真館があり女性の進出が大きな勢いで発展している。
日本
写真が日本に伝わったのは発明された数年後で幕末の1848年薩摩藩主島津斉彬がカメラ入手し日本で初めて写真が撮影された(西郷隆盛、大久保利通等軽輩から育てた名君で篤姫の養父)。1854年ペリー来航した時に記録のため写真家を伴ってきた。エリフレット、ブラウンで日本各地の風景や人物を撮影した。最初の写真館は1862年上野彦馬が上野撮影局を開業し有名な坂本竜馬の写真を撮影した。そして日本中に写真館が広がり、大志を抱いた若者がフランス、イギリス、ドイツ、アメリカへ学びに行った。県庁所在地の一等場所には写真館が必ずあった。人々から尊敬され写真師と呼ばれ文化人であった。各地の写真館が地域の記録、報道、を担っていた。その後写真館で学んだ若者たちの中から専門分野(報道、フォトジャーナリスト、文化財や各地の記録、戦争取材、ファッション、等)に分かれていった。
私は2代目で父が昭和7年に創業し83年目を迎えます。友人の写真館は150年が2人います。時代の変化は激しくデジタル化でスマホで日常のすごい量の写真が簡単に撮られています。又映像の多様化、表現の多様化、感性の多様化、その中での写真館の役割とはいま問われています。現状は時代の変革期を迎え今までのビジネスモデルの変革期を迎えています。いろいろ試行錯誤をしていますが、基本的には明治の写真館を目指しています。
それは個人、地域社会の歴史の表現者でありたい。当時写真師、いまはフォトグラファーとして文化の発信者でありたい。と今も自分にできる仕事に励んでいます。

by osakajotorc | 2015-04-14 15:00 | 卓話

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